黒の書の続き

黒の書はマジカルストリームのサンプルモデルであって単純明快に前半を洗脳された魔術、後半に西洋魔術の考えと、ライフバイタリティーのプレデターでありファクトリーであろう存在の位置づけを簡単にセットアップした。多かれ少なかれ、私は日本人が西洋魔術を説明することとは本来至極困難だと言う事を黒の書でにおいて書かなかった。西洋魔術-キリスト教の中で育まれた複雑な象徴主義が、何故、日本人に理解できるのか?という素朴な疑問もさることながら、うすうす気がついている人もいるだろう-魔術の本は絶対数でいえばすべて英語で書かれており日本語の邦訳出版は最新重要な書物に関しては全く発行されていない。
『私は英語が出来ない』という日本人で標準な能力が日本人の魔術師を永遠と黄金の夜明け縛りを引き起こしているようにしか見えない。今だに馬鹿らしいことに、ローマ字で印形を作る日本混沌魔術師もいるだろう。それが意識に影響すると私は思えない。確信をつけば本来西洋魔術、西洋人の生活環境であるクリスチャンの紙は『願望を聞き届ける』ものではなくその祈りは感謝と懺悔であるはずで、創造主やキリストのアバタールを借りて精霊、悪魔に命令をする事が西洋魔術であって、宗教としてみれば西洋魔術とは、邪教でしかない。私達日本人の神や仏という者は、別にアバタールをお借りしなくとも願望を聞き届ける働きを最初から持っているように思える。宗教的に見て絵馬に願望を書くことはなんら邪教ではない。このカルチャーの違いがどうやって一世代の意識で改変できるか私は知らないが、少なくとも西洋魔術を志す(洗脳魔術)は全員キリスト教に改心すべきではないだろうか?かつて偉人がオシリスを崇拝することはイエスを崇拝することに等しく、仏陀を崇拝することに等しいと述べているがそれは、間違いか、その発言者だけに有効だった奥義であると思う。私はイエスの教えと仏陀の教えに共通要素を見出せることは出来ないことさら小乗仏教まで比較すれば確実に異質な存在でしかなく、もしこの万物対応理論に従うなら私たちは天照大神を崇拝することはイエス・仏陀を崇拝することに等しいとなる。が、前途にも述べたが宗教としてみた場合、イエスは受験生の願いなど絶対聞き入れないはずであり結果として魔術という矛盾した体系に頼ることになる。さらに私は魔術が学問だとは思えない。少なくとも今まで述べられた18世紀~19世紀にかけて散々のべられている魔術の知識はソウルエデシケンスではないし、何度も何度も同じ事を述べている。そして何度も何度もカバラ十字について書かれてる、これのどこが学問なのか?そして今は21世紀であり、18世紀ロンドンで想像も出来なかったテクノロジーが出現しているし、私達はそのテクノロジーに順応して生活している現代日本人なのである。古代ギリシア神秘哲学は科学によってすべて破壊されたというリアルを何故、認めずに私達はユング心理学を持ち出してこじつけてまで学ばなければならないのか?錬金術。今は銅から金が製造できる時代であるが、私達はロマンとファンタジーを求めてまでして、
自分の精神を改ざんしなければならないのか?もし、魔術とは意志に従って変化を起こすサイエンスでありアートであるならば、19世紀サイエンスではなく、21世紀サイエンスで、21世紀のアートで魔術をい考えなければ成らないのではないだろうか?私が考えうる魔術とはそういうものでしかない。
正直に言って黒の書は洗脳されてない魔術志願者と脱洗脳の為のマニュアルであって続編という構成は考えていなかったが、続編という物語であって今その物語は始めて第一章のプロットを考え始めたということになる。そして物語には必ず終わりがあり沢山売れればスピンオフがあるということになるのが商業出版でのお約束である。

著作権 黒野忍

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