伝説が消える

2月は2647名の方々が閲覧してくださいました。

携帯を見たらMさんの訃報がSMSで入ってました。死因とか聞いてないです。2月28日永眠

初代オーガナイザーまた10年以上の付き合いで彼とは色々ありました。この色々には決して良い面だけではないです後半特に。しかしながらまずご家族の方に哀悼の意を。

Mさんは、日本初の島Raveを手がけました。大島まで東京から参加者を移動させました。ちなみに僕はDJでしたが寝坊していけませんでしたが、青山夫妻も参加しています。

このRaveは1990年代に行われたので日本初です。

そしてパーティーのオーガナイザーに就任しました。まず彼が手掛けたのがILL。僕はDJとして参加していませんが、この時青山夫妻、データハウス編集者、村崎百郎、桂川尚文(敬称略)が来てVIPルームで歓談しました。

その後彼は僕が故人と約束したトリロジーのパーティーのオーガナイザーに就任し彼がマネージメントをしましたが集客数2桁を出し赤字になりました。

そして、トランスとギグ(パンク等のライブ)からTrangixのオーガナイザーに就任。最初六本木のクレイジーホースという六本木ドン・キホーテから徒歩5分にあったクラブでスタートし僕はDJ側になります。集客2桁。まずこのパーティー平日木曜日月1で行われているので2桁でもいいのですが赤字です。僕はフロアーを見て集客数が少ないそれが怖くて下を向いて6時間DJするようになりました。またクレイジーホースのオーナーのSさんから「あのDJいますぐおろせ!曲止めろ!!」といわれた選曲をしましたがMさんはそれでも僕に現場の場数を踏ませたかったのでしょう。最後までDJとして立たせてくれてました。

そして渋谷ルイードで平日木曜日にTrangixが開催されます。僕はこの時も下向きでプレイしてましたが、ヘットフォンを外した時

「こっちみて~~~」という黄色い悲鳴で見上げると箱パン状態でした。そしてオリジナル曲も作りましょうというMさんの叱咤で多くのトラックを作りました。またDJスタイルをMさんが指示し「忍さんはデリッカーで。」となりデリッカーのDJスタイルを貫きます。さらに専用レーザー、専用ミキサーを導入、PAに「黒野の証明はフラッシュと最後、フロアーに向けて照明を。」と指示。彼が伝説を作りました。平日の木曜に200名、また多くの芸能人が訪れました。またときに「2度とあの曲は回さない」というと彼は「忍さんTmネットワーク好きですよね?TMだってGet Wildなんか二度と歌いたくないっていってるかもしれないけど、ビジネスなんだから個人の意見をいれちゃダメですよ。」と唯一意見してくれる人でした。オリジナルに関しても「もうちょいBパートのアルペジオ工夫しましょう。」そして彼だけでしょう。僕がアニソンのトランスを作り始めると「いいですね!頑張って。」と。また僕のDJスキルを高める為にTrangixは企画当初から、DJは全てバトルで来月出れるDJはお客さんに決めてもらうというものでしたが、そこに海外プロのレーベルDJをブッキングしてきました。TIPレーベルのDJが多かったですね。

彼はベーシストでした。1度Trangixで3人でプレイしたのですが正直いらないとおもいました。しかしベーシストとして腕は確かでした

そしてオーガナイザーをやめ僕と距離をとり数年後電話が来て色々な意味で苦痛でした。23時に電話来て朝の5時までずーっと色々と話されました。しかし1つ言えることは彼は昔取った杵柄の話を多くしましたが、僕がパニックになった時

「あわてない、あわてない。」

彼の偉大な功績は沢山あります。彼が伝説を作りました。その伝説を書くことはしませんしかし知る人は知ってるでしょう。

混沌に帰り新しく生まれ変わるか、もう生まれ変わらないか選択を。

最後までお読みいただきありがとうございました。