黒野忍オフィシャルサイト

ケイオスインターナショナルの帝国

タイトル通りの本を書くのですが、年表などを書かないといけないしヒューマンドラマなので、どこからかけばいいのか?と思っています。なのでブログを書き、たたき台にしていこうかな?と思っています。

1994年:資本3万。僕と響は露店で合法ドラッグを売ることを開始した。といっても最初はブフォテニンの為にヒキガエルを購入し1匹3万で売ろうとしてた。元々、ハーバルエクスタシーが流行していたが、その成分ー麻黄ーだけを3gで3000円で販売していた。しかし世間にいくら述べようとハーバルエクスタシーというブランドが、さらにアダルトショップでも販売されはじめたが、麻黄とヒキガエルは売れた。

何故露店にしたか?実に簡単な経営法で広告にもなるし、対象は道行くすべての人々だった。またビジネスを始めるにあたり僕と響は、薬事法に関して徹底し、どんな効果があるのか?どう使えばいいか?一切答えず、本を読んでくださいね~とだけ述べていた。

そしてケイオスインターナショナルの1つの目的は、覚醒剤撲滅撲滅キャンペーンだった。当時、渋谷でイラン人が覚醒剤と偽造テレカを売っていた。覚醒剤の乱用は問題なのだから、合法ドラッグを売ることで覚醒剤を辞めれる人が増えればいいそう思ったし、事実、商品を包む包装には覚醒剤撲滅を推進すると書いた。

そして1995年 僕と響は2CBを売り始めた。1995年ケイオスインターナショナルは2CBを1万錠持っていた。この1万錠を売るのに9か月かからなかったし、ケイオスインターナショナル初のイベントーパーティーILLでは、2CBをチケットにつけて販売していた。この時、ケイオスインターナショナルの資産は1500万となり、僕は海外ーオランダ、イギリス、中国に2CBを合成するチームと施設をレンタルした。それでも資産は増えていくばかりだった。

何よりもケイオスインターナショナルがブランドにしたのは安全と安心だ。安全はお金で買える。しかし安心はお金で買えない。そこをお客様に提供するために僕と響は日々頑張った。雨の日でも出店していた。

勿論ペヨーテの販売、パチャノイの販売も始めそしてついに、マジックマッシュルームの胞子を手に入れた。

ここからが渋谷系ドラッグという名称をケイオスインターナショナルが作る話が始まる。

勿論、SPAやTVにインタビューされる。マスコミは合法ドラッグが道端で買える事だけを報道してくれたし、報道の後の売り上げは3桁に達するほどだった。

元々決めてたことに、経営者である僕も道端にいることで、常に現場を把握していた。

こうして始まる物語は様々なスタッフそして日本初の島RAVEまで行い栄華を極めた。

続く。